私の両親と家業のこと。その1

うるまゆ

2010年10月02日 23:31

私を育ててくれた両親について。

実はいろいろと複雑なのですが、

隠すことでもないので、ぶっちゃけます(笑)



私は、韮山で芸者置屋を営む両親のもとで生まれました。

一人娘です。

今となっては芸者置屋という商売もあまり聞かないと思いますが、

私が小さいときは、まだまだ伊豆長岡も活気があり、毎晩のように宴会のお座敷に

呼ばれていました。

夜のお座敷に備えて、夕方の我が家は戦争。

父が事務方全般をやり、母は1人で芸者さんの着付け。

みんなでお座敷に送り出したあと夕飯。

お座敷が終わって帰るころには、当然私は寝ているのですが、

芸者さんたちがお客さんからチップをはずんでもらったり、高級なお寿司をおみやにもたせて

もらったときには、よくたたき起こされたものです(笑)

お酒とタバコと着物の香りが充満する空間。

子供を育てる環境としては今では信じられないけど、私にとっては懐かしい香りです(笑)

芸者さん(とくに温泉場)ってちょっと勘違いされてるところもありますが

普段は三味線、唄、作法、日本舞踊・・・など、芸事の修練もとても厳しいものでした。

私も実は日本舞踊を習っていたんですよ(笑)

ここまでは家業の話。

さて、父と母のことです。

もともと、私の母も九州から人を頼ってこちらに住み着き、芸者として伊豆長岡、修善寺

遠くは船原のほうまでお座敷に出ていたとか。

昔は華やかだったんですね!

母の芸者の通り名は、小さくて丸っこかったので『万丸』ちゃん(笑)

(ちなみに母の当時を知る地元の方は、若いころの母に私がそっくりでいまだに『万丸ちゃんの娘』と

呼ばれます(笑))

頑張りを認めてもらったのか、当時の女将さんよりのれんわけをしてもらい、

20代後半で置屋の女将さんになったそうです。すごい、ある意味出世!!

で、ここで父の登場です。

父は富士の出身で、生まれも育ちもよかったそうで(→あくまでも本人談)

会社を経営し、よく遊んでいたそうです(爆)

長岡のほうによく繰り出し、たまたま宴席に呼ばれていた母のことが気に入ったようで、

その後もよくお座敷に呼んだそうです。母曰く、すごくいいお客さんだったとか!!(笑)

ところがところが・・・・父の会社が諸事情で(→ここは伏せます)倒産。

いい身なりをしていた父が、肌寒い時期にランニング、短パン、サンダル姿で突然母を頼って

きたそうです。

忙しかった母はどうにもして助けてあげられないからと、とりあえず帰るように促したそうですが、

祖母が『キモチが落ち着くまでここにいればいいよ』と家に置いたとか。

母にとっては、とっても迷惑だったそうで・・・しかも、お金もないのに、いろいろひどいことを

忘れるためにお酒に逃げていたそうで、朝からずっと飲みっぱなし。

それでも祖母は手厚く面倒をみたそうです。

そんな変な同居生活のなか・・・情に変わったのか、結果として私が母のお腹に宿ったんですね(笑)

それを知ってから父は心機一転、狂ったように働き出し自分の会社や家庭のごたごたを整理し、

数年かかってめでたく家族になったそうです。

まー、もっと内情はすごかったとは想像できますけどね(爆)

そんなきっかけから二人で芸者置屋を切り盛りしていき、私が物心ついたときには

もうそれは毎日が宴会のにぎやかな毎日でした(笑)

これまでの芸者置屋の形を変えようと、ビジネスモデルを打ち立てて、

新しいスタイルの経営を取り入れたことで、母の置屋は基盤がしっかりしていましたが、

昔堅気を守る母と、ビジネスと割り切る父とはよく衝突していました(笑)

しかも二人は年が16歳も離れていたので、いつも母は論破されてしまい

実はかなーり不満をもっていたようです(後の談)

儲かったけど、人と人のつながりに溝ができてしまったとか・・・。

続きます・・・













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