私を育ててくれた両親について。
実はいろいろと複雑なのですが、
隠すことでもないので、ぶっちゃけます(笑)
私は、韮山で芸者置屋を営む両親のもとで生まれました。
一人娘です。
今となっては芸者置屋という商売もあまり聞かないと思いますが、
私が小さいときは、まだまだ伊豆長岡も活気があり、毎晩のように宴会のお座敷に
呼ばれていました。
夜のお座敷に備えて、夕方の我が家は戦争。
父が事務方全般をやり、母は1人で芸者さんの着付け。
みんなでお座敷に送り出したあと夕飯。
お座敷が終わって帰るころには、当然私は寝ているのですが、
芸者さんたちがお客さんからチップをはずんでもらったり、高級なお寿司をおみやにもたせて
もらったときには、よくたたき起こされたものです(笑)
お酒とタバコと着物の香りが充満する空間。
子供を育てる環境としては今では信じられないけど、私にとっては懐かしい香りです(笑)
芸者さん(とくに温泉場)ってちょっと勘違いされてるところもありますが
普段は三味線、唄、作法、日本舞踊・・・など、芸事の修練もとても厳しいものでした。
私も実は日本舞踊を習っていたんですよ(笑)
ここまでは家業の話。
さて、父と母のことです。
もともと、私の母も九州から人を頼ってこちらに住み着き、芸者として伊豆長岡、修善寺
遠くは船原のほうまでお座敷に出ていたとか。
昔は華やかだったんですね!
母の芸者の通り名は、小さくて丸っこかったので『万丸』ちゃん(笑)
(ちなみに母の当時を知る地元の方は、若いころの母に私がそっくりでいまだに『万丸ちゃんの娘』と
呼ばれます(笑))
頑張りを認めてもらったのか、当時の女将さんよりのれんわけをしてもらい、
20代後半で置屋の女将さんになったそうです。すごい、ある意味出世!!
で、ここで父の登場です。
父は富士の出身で、生まれも育ちもよかったそうで(→あくまでも本人談)
会社を経営し、よく遊んでいたそうです(爆)
長岡のほうによく繰り出し、たまたま宴席に呼ばれていた母のことが気に入ったようで、
その後もよくお座敷に呼んだそうです。母曰く、すごくいいお客さんだったとか!!(笑)
ところがところが・・・・父の会社が諸事情で(→ここは伏せます)倒産。
いい身なりをしていた父が、肌寒い時期にランニング、短パン、サンダル姿で突然母を頼って
きたそうです。
忙しかった母はどうにもして助けてあげられないからと、とりあえず帰るように促したそうですが、
祖母が『キモチが落ち着くまでここにいればいいよ』と家に置いたとか。
母にとっては、とっても迷惑だったそうで・・・しかも、お金もないのに、いろいろひどいことを
忘れるためにお酒に逃げていたそうで、朝からずっと飲みっぱなし。
それでも祖母は手厚く面倒をみたそうです。
そんな変な同居生活のなか・・・情に変わったのか、結果として私が母のお腹に宿ったんですね(笑)
それを知ってから父は心機一転、狂ったように働き出し自分の会社や家庭のごたごたを整理し、
数年かかってめでたく家族になったそうです。
まー、もっと内情はすごかったとは想像できますけどね(爆)
そんなきっかけから二人で芸者置屋を切り盛りしていき、私が物心ついたときには
もうそれは毎日が宴会のにぎやかな毎日でした(笑)
これまでの芸者置屋の形を変えようと、ビジネスモデルを打ち立てて、
新しいスタイルの経営を取り入れたことで、母の置屋は基盤がしっかりしていましたが、
昔堅気を守る母と、ビジネスと割り切る父とはよく衝突していました(笑)
しかも二人は年が16歳も離れていたので、いつも母は論破されてしまい
実はかなーり不満をもっていたようです(後の談)
儲かったけど、人と人のつながりに溝ができてしまったとか・・・。
続きます・・・