結婚式効果のおかげで、しばらくは体調も安定し年越しもお正月も
家族で過ごすことができました。
先生から宣告された余命を越え、すこしずつ明るい兆しが見えてきました。
ただ、ガン自体が消えた分けてもなく、根本的な治療がない。
あとは残された日々を苦痛を少なく過ごすことを優先に。
それは変わらない事実でした。
誰からも好かれた母。
私の友人たちも母のお見舞いに足を運んでくれました。
出産後赤ちゃんを連れてきてくれ、しばし癒される時間をすごす母は
『孫ほしいなぁ。早く欲しいなぁ』と無邪気に私に振ります。
『授かり物だからね。気長に待ってよ』というと
『もう私は先がないからね、私の命をあげるからね。そう、昨日夢で
お願いしたんだよ』・・・言葉が出ませんでした。
1ヶ月ほど家で過ごせるほど安定した日々。
趣味の手芸をしたり、昔話したり。
普通にケンカしたり(笑)
ただ、あちこち連れて行けないことが残念でした。
食事制限もあったけど、時々2人でケーキを食べまくったり。
そんな些細な毎日がすぎていた矢先、激しい痛みを訴え
すぐ病院へ。
いよいよ疼痛コントロールが自宅では厳しくなったということ。
つまりもう家にはもどれないところまできたことを覚悟してくださいと
宣告されました。
何が辛いかというと、こういう辛い事実を言われ、
涙をこらえて母に接すること。
もう、きっとわかっている。ばれているとは思っていても
いまさら告知して、好きなようにしようとはいえない。
さすがに母も精神的に追い詰められ遺書を書く始末。
ある意味お互いギリギリの精神状態になってきました。
家族も焦るばかり。ぎすぎすしてしまいケンカが多くなりました。
こうしていても仕方がない。
だけど打開策がなかったんです。
こういうとき、第三者のメンタルケアというものが重要なんだなぁと
感じるようになりました。
がん患者を抱える家族、本人の癒し、癒される場が少なすぎるんですね。
入院中、夜中に母が痛みと不安を訴えるため、特別に許可をもらい
病院に泊り込むことになりました。
こむら返りをしょっちゅうおこすため、痛がる体をさすってあげると
安心して眠ってくれました。
そんなときに妊娠がわかりました。
母は涙を流してよろこび、編み物を始めました。
もう手も利かないのに一生懸命に目を拾って赤ちゃんの服を編むんだと。
しかし妊娠がわかって1週間後、母を息を引き取りました。
とても苦しく本当に本当に辛かったと思います。
もう覚悟をしていたので私もどちらかというと母がこの苦しみから
解放されたことにほっとしたのが本心です。
母を失った悲しみにくれるまもなく、私はお腹に宿った命を守るべく
必死でした。
この新しい命こそ、本当に母の生まれ変わりと信じています。
私のギリギリの精神状態のなかもしっかりとお腹の中で育ってくれ
五体満足で私のところへきてくれました。
生まれて初めて娘とであった時に、
『お母さん、ありがとう』とお礼をいいました。
小さな手が私の指をぎゅっと握り返してくれました。
母が亡くなってから6年が経ちました。
正直なところ年々母への思いが募ります。
どうしてなんでしょう?
親になって壁にぶつかった時、きっと母もこういう思いをしたんだと
思うとき、計り知れない母から私への愛情を強く感じるからなんでしょうね。
大人気ないですが、本当に母に会いたいです。
着物の着付けも、たくさん残してくれた着物の種類も価値もよくわからず
何も母から学び取らなかった自分に悔しくてたまりません。
こんなおもしろく明るくやさしい娘を抱かせてあげられなかったことが
悔しくて。
でも、これも運命。
何年かかっても悲しみは癒えないかもしれないけど
それはずっと私の心に重くのしかかっても
忘れないで生きていきたい。
長々とすみませんでした。
赤裸々につづりたかったので、乱暴な書き方ですが
思いをつづる事ができてよかったのかな、と思います。
私という原動力、人を喜ばせたい、喜んでもらいたいというのは
まさしく母の存在、母のDNA。
はっちゃけちゃうこともあるけど、
そっと見守ってください。
そして、一緒に楽しんでくださいね。
お母さん、アナタの娘は危なっかしいけど
がんばってるよ!!!!
誰にも負けないよ!
そして私がみんなを守るよ。 合掌。
追記:今日は『危部』の部会があったんだけど、仏壇に声をかけてくれたりお線香上げてくれたり。
涙をこらえるのが大変でした。みんな、ありがとう。