私の両親と家業のこと。その2

うるまゆ

2010年10月25日 01:27

ちょっとブランクがありましたが、続きを書こうかな。
しばしお付き合いくださいませ。

順調にきていたと思われていた家業のほうも、景気のあおりをうけ
芸妓さんよりコンパニオンのほうがニーズが高い状況になってきていました。
以前よりお座敷もぐっと減り、温泉街のにぎやかさも少しずつ少しずつ
失われて・・・伝統とはいえ、その伝統を披露する場もなければ続けていくことは
難しいと時代を先読みしていた父は廃業を決意。
まだまだやっていけそうなのに・・・とありがたいお言葉をかけていただきながらも
早々に廃業してしまいました。
私が中学2年生くらいだったと思います。

籍を置いていた芸妓さんも置屋の廃業とともに解散。
父のバックアップでスナックを経営するお姐さんもいれば、
コンパニオンに転進したというお姐さんも。
どこかの温泉場に職を求めて出向いていったお姐さんもいらっしゃいました。
今では行方がわからない方がほとんどですが、みなさん元気でいらっしゃるのかな。
母が亡くなった事、知っているのかな・・・
時々ふとあのにぎやかな風景を思い描くと胸が熱くなり、
あの活気のある独特の雰囲気の温泉場を夢に描くことがあります。

家業を廃業したものの、まだ私は中学生。
この頃から激務がたたったのか、両親が相次いで体調を崩すようになり
新たに仕事を探して働くことはとても厳しく、おそらく貯金を切り崩して生活を
していたのだと思います。
・・・私、実は今で言う『お受験』で中学から私立に行かせて貰いました。
母親同士仲の良い幼馴染がお姉さんの通っている学校に行きたいということを聞き、
それだけで私も感化され受験を決めてしまった・・・と思われます(笑)
友人は有名塾へ通っていましたが、私が受験を決意した頃はもうすでに入れる枠もなく
父と毎朝4時に起きて勉強した覚えがあります。
かなりスパルタな父に線引きで叩かれながら涙をこらえて問題を解いていたあの頃。
親子してなぜか引き下がれず、意地もあったのだと思います(笑)
めでたく?なのかマグレなのかいまだに合格して、6年間も通って卒業したことが
いまだに不思議で・・・今の私の様子から『え?ほんとに卒業生?!』と
いわれるほどですが・・・。
こうして私自身親になった今、家業を廃業したのにもかかわらず、学校を卒業
させてくれたことについては本当に感謝しきれないです。
病気も抱えながら働けない不安を抱えつつ、それらを一切感じさせずに
全力でバックアップしてくれたなぁと・・・。

家族で一緒にスポーツをするとか、そういった普通の家庭にあったことは
少なかったけど、華やかでありつつ厳しい花柳界のこと、男女のこと(笑)、
お金のことなどかなりオープンで独自の路線で世の中を見せてくれたと思います。

自分の将来を考える時期がきたころには、手に職!!をかかげ、
そのまま成績をキープしていけば大学へ進学できる道ははじめから選択肢になく
システムエンジニアを目指しました。
その頃、興味持っていたのがパソコンだったので(笑)

みんなが右へ行くというなら、あえて左に進んでいこうとする
アマノジャクというか、苦労も後日談として楽しんじゃおうという精神のルーツ
になっているんでしょうか?

今も昔も本当に両親に感謝しています。

特に・・・そのキモチは静かに眠る母。

そんな母へ祈りをこめて次回は思いをつづりたいと思います。


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