2010年10月25日

母と私が歩んだ道。その2

私がお勤めしている8年のあいだに母はガンを2度経験しています。
父もその間に、心筋梗塞で倒れバイパス手術を受けることもあり、私はもらった有給を
すべて病院の付き添いで使いきっています。
これも一緒に住んでいるからできることであり、また一人娘の宿命なんです。
母のガンの宣告を受けた時は、ショックは大きかったものの初期だったため、
手術によってすべて取り除かれました。
ただ、常に再発のリスクは抱えており、本人も家族もそれがいつも心配の種。

仕事をがんばっているのはいいんだけど、早くお嫁にいきなさいよ。
お母さんもたないよー・・・というのが口癖になっていた母。
私は結婚願望はあったものの、どちらかというと仕事をしてお金貯めて、
散財して(笑)両親の面倒は私が見る!というキモチが強かったので
まだまだ先でいいや!なんてのんきに構えていたら三十路の声を聞き
母のほうが焦っていました(爆)

そんな頃、ひょんなきっかけから同じ部署にいた大先輩にあたる父ちゃんと
意気投合してあれよあれよというまに結婚が決まり、結納を交わした翌日。

母が急激な腹痛を訴え、父が病院に連れて行って私も駆けつけました。
『家族の方を集めてください』というドクターの言葉に、ものすごい不安を覚え
家族になる予定の父ちゃんも病院に来てもらい話を聞きました。

『肝臓がんのステージⅣで余命3ヶ月』

目の前真っ白になりました。肝臓がんは一度クリアになったものの、肝硬変に
なっていたため、ガン再発のリスクは高いとは聞いていましたが、
こんなことになっていたとは。
2ヶ月に一度、主治医の先生の診察は欠かさなかったのに。
さすが沈黙の臓器。
しかも肝硬変が悪化していたので、ガンができると瞬く間に広がってしまったのだろうと。
あまりの急展開に私しばらく動けず。

そしてこの病状を本人に告知するかしないか。
考える余裕もなく、まず家族のなかで気持ちを整理するため
しばらくは伏せておくことに。
母はそのまま入院となりました。

家に帰って父とそして将来を決めた父ちゃんと話したこと。
このとき9月だったのですが、12月に予定している結婚式をどうするか。
おそらく治療という治療は特にないので疼痛コントロールをどうすすめて
いくか。
そして、いつその日が来てしまうのか・・・
泣いていても始まらない。もうカウントダウンが始まってしまったんだ。

まずはすぐ入籍。そして、沼津に住んでいた父ちゃんが家を売って
うちの実家に住むことに。
それは一日も長く『あたらしい家族』ですごす時間をつくるため。

そして私の退職。
あまり母のことは表に出したくなかったので、タイミング的に寿退職。
このときまで私と父ちゃんが結婚、ましてやお付き合いしてたことも
知らない人が多かったので、結婚と退職で大きな話題を作ってしまいました。
私の退職で会社内が静かになったとも(爆)
退職に関してはすごく悩みました。まだまだ勉強していっちょまえのエンジニアを
めざしたかったから。
だけど、今は母との時間が大事。自分の夢は後回しにしようと腹に決め
スッパリ辞めてきました。

退職後は日に日に弱る母の付き添い。ガンの痛みを抑えるための薬と
弱った肝臓の働きを助ける点滴を毎日。
コントロールがきかないと入院の繰り返しでした。

『やっぱり再発したんだよね。こんなに辛いもの。あんたも続けたかった
会社なんかやめなくたってよかったのに。』と泣かれることもしばしば。

もう告知しよう、と何度も思ったんだけど、告知はとてもデリケートな問題。
その事実を受け入れられる患者さんと、かえって逆効果を与える患者さんと
分かれると聞いていたので、今の母にはとても耐えられない事実。
たしかに自分の人生ですから知る権利もあるし、自分で決めたいこともあるでしょう。
でも、私はこの事実を知って落ち込んで生きる力をもてるかどうか、この状態の
母には厳しいと思っていたんです。
いまだにそれが正しいのかどうか後悔の念にも近い気持ちになることも
ありますが・・・。

あまりにも一緒にいすぎて、お互いストレスがたまりケンカすることも
たくさんありました。
私の言葉がきつすぎて、母が泣いて寝室からでてこないことも。
お互い気持ちがギリギリだったんですね。
こんな状態では母にかえって辛い思いをさせるだけだと
時折は息抜きをしていましたが、一分一秒がもったいないと思ってしまい、
私もかなり極限状態まできていました。

けれど、やはり親子。こういった濃密な時間を過ごすことが少なかったこともあり、
病院の帰りにお茶をしたり、手をつないで散歩したり。
今でも思い出すと涙が出るほどあたたかい時間でした。

秋が深まるにつれ、母の容態は一進一退。
ただ母の願いは私の結婚式に出席することでした。
治療がまったくなかったわけでななかったのですが、とにかく肝硬変の
悪化がネックでした。
ガンをアタックすることにより、肝不全をすすめてしまうリスクが高く
本当に気休め程度の治療を施すことしかできないことが歯がゆかったです。
12月に入ってからは容態が悪化し、再入院。
ドクターからも無理して結婚式には出せないとの許可も下りず
私もあきらめていたのですが、前日になってまさかの回復。
先生からも車椅子での出席、式が終わり次第すぐ病院へ帰ることを条件に
一泊外泊で家にもどってきました。
しかし夜中に悪化し、明日はいけないと母は大泣き。
私も期待していただけに残念なキモチでいっぱいだったのですが、
何より母の体調が大事。
父が病院に連れて行くから申し訳ないけど両親欠席といわれたときは
大人げなく泣いてしまいました。

朝、半分父とケンカしつつ1人式場へ準備に行き、控え室で支度をしていると
突然ノックが。
後から準備に来る父ちゃんが、父と母を連れてきてくれました。
しかも母は車椅子にも乗らず、しっかり留袖を着てる。
着付けを頼んでいたのにもかかわらず、自分の体調に合わせてゆるめて着物を
着たいと自分ですべて着付けたそうです。
『じゃ、あとでね。昨日はごめんね』といって歩き出した姿は
昔の粋な後ろ姿そのままでとてもステキでした。
大宴会のような披露宴だったので母もずっと笑顔のまま。
お腹の底から笑ったよー、もう治るね。きっと・・・と言葉を残して
病院へ帰りました。

続きます。






タグ :家族

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Posted by うるまゆ at 01:28│Comments(0)家族
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