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2010年10月25日

母と私が歩んだ道。その3

結婚式効果のおかげで、しばらくは体調も安定し年越しもお正月も
家族で過ごすことができました。

先生から宣告された余命を越え、すこしずつ明るい兆しが見えてきました。

ただ、ガン自体が消えた分けてもなく、根本的な治療がない。
あとは残された日々を苦痛を少なく過ごすことを優先に。

それは変わらない事実でした。

誰からも好かれた母。
私の友人たちも母のお見舞いに足を運んでくれました。
出産後赤ちゃんを連れてきてくれ、しばし癒される時間をすごす母は

『孫ほしいなぁ。早く欲しいなぁ』と無邪気に私に振ります。

『授かり物だからね。気長に待ってよ』というと

『もう私は先がないからね、私の命をあげるからね。そう、昨日夢で

お願いしたんだよ』・・・言葉が出ませんでした。

1ヶ月ほど家で過ごせるほど安定した日々。
趣味の手芸をしたり、昔話したり。
普通にケンカしたり(笑)
ただ、あちこち連れて行けないことが残念でした。
食事制限もあったけど、時々2人でケーキを食べまくったり。
そんな些細な毎日がすぎていた矢先、激しい痛みを訴え
すぐ病院へ。

いよいよ疼痛コントロールが自宅では厳しくなったということ。
つまりもう家にはもどれないところまできたことを覚悟してくださいと
宣告されました。

何が辛いかというと、こういう辛い事実を言われ、
涙をこらえて母に接すること。
もう、きっとわかっている。ばれているとは思っていても
いまさら告知して、好きなようにしようとはいえない。
さすがに母も精神的に追い詰められ遺書を書く始末。
ある意味お互いギリギリの精神状態になってきました。
家族も焦るばかり。ぎすぎすしてしまいケンカが多くなりました。
こうしていても仕方がない。
だけど打開策がなかったんです。
こういうとき、第三者のメンタルケアというものが重要なんだなぁと
感じるようになりました。
がん患者を抱える家族、本人の癒し、癒される場が少なすぎるんですね。

入院中、夜中に母が痛みと不安を訴えるため、特別に許可をもらい
病院に泊り込むことになりました。
こむら返りをしょっちゅうおこすため、痛がる体をさすってあげると
安心して眠ってくれました。
そんなときに妊娠がわかりました。
母は涙を流してよろこび、編み物を始めました。
もう手も利かないのに一生懸命に目を拾って赤ちゃんの服を編むんだと。

しかし妊娠がわかって1週間後、母を息を引き取りました。
とても苦しく本当に本当に辛かったと思います。
もう覚悟をしていたので私もどちらかというと母がこの苦しみから
解放されたことにほっとしたのが本心です。

母を失った悲しみにくれるまもなく、私はお腹に宿った命を守るべく
必死でした。
この新しい命こそ、本当に母の生まれ変わりと信じています。
私のギリギリの精神状態のなかもしっかりとお腹の中で育ってくれ
五体満足で私のところへきてくれました。
生まれて初めて娘とであった時に、

『お母さん、ありがとう』とお礼をいいました。
小さな手が私の指をぎゅっと握り返してくれました。

母が亡くなってから6年が経ちました。
正直なところ年々母への思いが募ります。
どうしてなんでしょう?
親になって壁にぶつかった時、きっと母もこういう思いをしたんだと
思うとき、計り知れない母から私への愛情を強く感じるからなんでしょうね。

大人気ないですが、本当に母に会いたいです。
着物の着付けも、たくさん残してくれた着物の種類も価値もよくわからず
何も母から学び取らなかった自分に悔しくてたまりません。

こんなおもしろく明るくやさしい娘を抱かせてあげられなかったことが
悔しくて。
でも、これも運命。

何年かかっても悲しみは癒えないかもしれないけど
それはずっと私の心に重くのしかかっても
忘れないで生きていきたい。

長々とすみませんでした。
赤裸々につづりたかったので、乱暴な書き方ですが
思いをつづる事ができてよかったのかな、と思います。

私という原動力、人を喜ばせたい、喜んでもらいたいというのは
まさしく母の存在、母のDNA。

はっちゃけちゃうこともあるけど、
そっと見守ってください。
そして、一緒に楽しんでくださいね。


お母さん、アナタの娘は危なっかしいけど
がんばってるよ!!!!
誰にも負けないよ!

そして私がみんなを守るよ。       合掌。


追記:今日は『危部』の部会があったんだけど、仏壇に声をかけてくれたりお線香上げてくれたり。
   涙をこらえるのが大変でした。みんな、ありがとう。




  
タグ :家族


Posted by うるまゆ at 01:28Comments(0)家族

2010年10月25日

母と私が歩んだ道。その2

私がお勤めしている8年のあいだに母はガンを2度経験しています。
父もその間に、心筋梗塞で倒れバイパス手術を受けることもあり、私はもらった有給を
すべて病院の付き添いで使いきっています。
これも一緒に住んでいるからできることであり、また一人娘の宿命なんです。
母のガンの宣告を受けた時は、ショックは大きかったものの初期だったため、
手術によってすべて取り除かれました。
ただ、常に再発のリスクは抱えており、本人も家族もそれがいつも心配の種。

仕事をがんばっているのはいいんだけど、早くお嫁にいきなさいよ。
お母さんもたないよー・・・というのが口癖になっていた母。
私は結婚願望はあったものの、どちらかというと仕事をしてお金貯めて、
散財して(笑)両親の面倒は私が見る!というキモチが強かったので
まだまだ先でいいや!なんてのんきに構えていたら三十路の声を聞き
母のほうが焦っていました(爆)

そんな頃、ひょんなきっかけから同じ部署にいた大先輩にあたる父ちゃんと
意気投合してあれよあれよというまに結婚が決まり、結納を交わした翌日。

母が急激な腹痛を訴え、父が病院に連れて行って私も駆けつけました。
『家族の方を集めてください』というドクターの言葉に、ものすごい不安を覚え
家族になる予定の父ちゃんも病院に来てもらい話を聞きました。

『肝臓がんのステージⅣで余命3ヶ月』

目の前真っ白になりました。肝臓がんは一度クリアになったものの、肝硬変に
なっていたため、ガン再発のリスクは高いとは聞いていましたが、
こんなことになっていたとは。
2ヶ月に一度、主治医の先生の診察は欠かさなかったのに。
さすが沈黙の臓器。
しかも肝硬変が悪化していたので、ガンができると瞬く間に広がってしまったのだろうと。
あまりの急展開に私しばらく動けず。

そしてこの病状を本人に告知するかしないか。
考える余裕もなく、まず家族のなかで気持ちを整理するため
しばらくは伏せておくことに。
母はそのまま入院となりました。

家に帰って父とそして将来を決めた父ちゃんと話したこと。
このとき9月だったのですが、12月に予定している結婚式をどうするか。
おそらく治療という治療は特にないので疼痛コントロールをどうすすめて
いくか。
そして、いつその日が来てしまうのか・・・
泣いていても始まらない。もうカウントダウンが始まってしまったんだ。

まずはすぐ入籍。そして、沼津に住んでいた父ちゃんが家を売って
うちの実家に住むことに。
それは一日も長く『あたらしい家族』ですごす時間をつくるため。

そして私の退職。
あまり母のことは表に出したくなかったので、タイミング的に寿退職。
このときまで私と父ちゃんが結婚、ましてやお付き合いしてたことも
知らない人が多かったので、結婚と退職で大きな話題を作ってしまいました。
私の退職で会社内が静かになったとも(爆)
退職に関してはすごく悩みました。まだまだ勉強していっちょまえのエンジニアを
めざしたかったから。
だけど、今は母との時間が大事。自分の夢は後回しにしようと腹に決め
スッパリ辞めてきました。

退職後は日に日に弱る母の付き添い。ガンの痛みを抑えるための薬と
弱った肝臓の働きを助ける点滴を毎日。
コントロールがきかないと入院の繰り返しでした。

『やっぱり再発したんだよね。こんなに辛いもの。あんたも続けたかった
会社なんかやめなくたってよかったのに。』と泣かれることもしばしば。

もう告知しよう、と何度も思ったんだけど、告知はとてもデリケートな問題。
その事実を受け入れられる患者さんと、かえって逆効果を与える患者さんと
分かれると聞いていたので、今の母にはとても耐えられない事実。
たしかに自分の人生ですから知る権利もあるし、自分で決めたいこともあるでしょう。
でも、私はこの事実を知って落ち込んで生きる力をもてるかどうか、この状態の
母には厳しいと思っていたんです。
いまだにそれが正しいのかどうか後悔の念にも近い気持ちになることも
ありますが・・・。

あまりにも一緒にいすぎて、お互いストレスがたまりケンカすることも
たくさんありました。
私の言葉がきつすぎて、母が泣いて寝室からでてこないことも。
お互い気持ちがギリギリだったんですね。
こんな状態では母にかえって辛い思いをさせるだけだと
時折は息抜きをしていましたが、一分一秒がもったいないと思ってしまい、
私もかなり極限状態まできていました。

けれど、やはり親子。こういった濃密な時間を過ごすことが少なかったこともあり、
病院の帰りにお茶をしたり、手をつないで散歩したり。
今でも思い出すと涙が出るほどあたたかい時間でした。

秋が深まるにつれ、母の容態は一進一退。
ただ母の願いは私の結婚式に出席することでした。
治療がまったくなかったわけでななかったのですが、とにかく肝硬変の
悪化がネックでした。
ガンをアタックすることにより、肝不全をすすめてしまうリスクが高く
本当に気休め程度の治療を施すことしかできないことが歯がゆかったです。
12月に入ってからは容態が悪化し、再入院。
ドクターからも無理して結婚式には出せないとの許可も下りず
私もあきらめていたのですが、前日になってまさかの回復。
先生からも車椅子での出席、式が終わり次第すぐ病院へ帰ることを条件に
一泊外泊で家にもどってきました。
しかし夜中に悪化し、明日はいけないと母は大泣き。
私も期待していただけに残念なキモチでいっぱいだったのですが、
何より母の体調が大事。
父が病院に連れて行くから申し訳ないけど両親欠席といわれたときは
大人げなく泣いてしまいました。

朝、半分父とケンカしつつ1人式場へ準備に行き、控え室で支度をしていると
突然ノックが。
後から準備に来る父ちゃんが、父と母を連れてきてくれました。
しかも母は車椅子にも乗らず、しっかり留袖を着てる。
着付けを頼んでいたのにもかかわらず、自分の体調に合わせてゆるめて着物を
着たいと自分ですべて着付けたそうです。
『じゃ、あとでね。昨日はごめんね』といって歩き出した姿は
昔の粋な後ろ姿そのままでとてもステキでした。
大宴会のような披露宴だったので母もずっと笑顔のまま。
お腹の底から笑ったよー、もう治るね。きっと・・・と言葉を残して
病院へ帰りました。

続きます。




  
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Posted by うるまゆ at 01:28Comments(0)家族

2010年10月25日

母と私が歩んできた道。その1

おサボり気味だったブログですが、
今日は祈りもこめて母への思いを書き留めておきたかったのです。

実は今日は母の誕生日。
生きていれば66歳です。
まだまだ若いですよね。

先述したとおり、私の母は伊豆長岡、韮山の温泉場で芸者さんをしていました。
体が小さくて丸っこいところから『万丸』(笑)
なんて単純!!と思いつつも、実は芸達者で人気のあった元芸者さんの名前を
頂いたというエピソードもあるんだよ!と母はよく自慢していました。
体が小さかった分、踊りや鼓、太鼓なで不利なことが多かった分
負けじと人一倍頑張った姿を置屋の女将さんに認められて名前を授かったとか。
母さん、すごいじゃん!
特別美人じゃないけど(笑)、着物姿は子供からみてもステキでした。
ちょこまかしていてリスみたいな普段からは想像できないくらい、着物に袖を
通すと背筋がしゃんとして、立ち振る舞いのきれいないこと。
身の丈以上の貫禄を感じるほどでした。

私を身ごもった時にはもう現役を引退したようですが、
母の現役時代の写真は、はなやかな温泉街の様子も残っており、
学術的にも?貴重なの資料なのかもしれません。
整理していつか蔵出ししたいと思っています(笑)

引退後はのれんわけしてもらった置屋を切り盛りし、先述のとおり
父が転がり込んでからは(爆)一変したそうです。
まったく母も人がいいというかなんというか。
いろいろ問題抱えた父を抱え込めば、苦労をしょいこむことは承知
だったはず。
おそらく本当の辛いところはお墓まで持っていってしまったのかなぁ。

そのかわり父も母への恩返しで、これまでの置屋のスタイルを変えただけで
同業のなかでもずば抜けて稼ぎが良かった・・・と父の談ですが(爆)
母の置屋をものすごく大きくしました。
だけど・・・母はそうは望んでなかったみたいです(笑)
ビジネスと割り切る父と義理や人情に厚い母との間には時々いさかいが
おきたようです。
たいてい16歳も年上の父が説き伏せてしまったというのは想像つきます(泣)

廃業してしばらくしたころから母は長年の激務がたたってたか
体調を崩すようになりました。
子供の頃からもともと心臓が弱く、過労はできないからだだったのに・・・。
家族を支えるために花柳界の飛び込んだそうです。
そのツケが帰ってきてしまったんでしょうね。

それでも私の学校が自宅から遠かったこともあったり、父も体調を崩すことが多くなった
こともあり、40代になってから車の免許を取ったり努力の人でした。
夜の仕事が主だった母には、今の私のようなママさん同士の昼間の交流というのも
なかったため、中学・高校での母親同士の付き合いには苦労したそうです。
在学中には一言も私にもらさなかったんですけどね。
中学生の多感な時期に、ふとしたきっかけで我が家が芸者置屋をやっていたことが
周りの耳に入り、大人な対応ができない一部の保護者には、勘違いもはなはだしい
花柳界のイメージ先行で外されたこともありました。
私も私ではっきりといわれたわけではないけど、よそよそしい態度をとられることが
あって・・・実は、それがトラウマでもありました。
あまりにもその状況が苦しくて母に相談したところ

『私たちは泥棒しているわけじゃないじゃない。芸者っていうのはね、日頃辛い思いをしている
ひとたちの息抜きの場をつくる大切な仕事なんだよ。汚いお金であんたを学校になんてやっていない。
むしろ人を喜ばせていただいたありがたいお金なんだよ。世の中にはよっぽど汚い商売をやって
いるひとだっているんだよ』

と慰めてくれました。
おそらく母も辛い思いをしていたんだと思います。
母は偉大です。
私は、家業が恥ずかしいと思ったことがとても恥ずかしくなって
母に父に申し訳なくて涙がとまりませんでした。
それ以来、私も逆に腹がすわりのびのび学校で好きなことをやってきました。
であって25年にもなる親友もいまだ続いていますし、母校も大好きになれました。

両親とも体が弱ってきていたので、一人娘としては遠くの大学へ行くより
手に職つけて近くにいたいというのもあり、私は友人と離れて地元の専門学校へ進学。
そして就職氷河期といわれながらもラッキーなことに第一志望の市内の制御機器メーカへ
就職しました。
仕事はかなりきつかったけどやりがいがありました。
いずれ機会があったらそのときのことをお話しようかとは思いますが・・・
深夜残業、時には徹夜もありましたが、家が近いことが唯一の救い。
時には飲み歩いていたこともありました(笑)・・が。いつもいつも母が心配して起きていられる
時間まで起きてくれていました。

遊んで帰ることもあるから寝ててもいいよ、っていってあったのにね。

  
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Posted by うるまゆ at 01:27Comments(0)家族

2010年10月25日

私の両親と家業のこと。その2

ちょっとブランクがありましたが、続きを書こうかな。
しばしお付き合いくださいませ。

順調にきていたと思われていた家業のほうも、景気のあおりをうけ
芸妓さんよりコンパニオンのほうがニーズが高い状況になってきていました。
以前よりお座敷もぐっと減り、温泉街のにぎやかさも少しずつ少しずつ
失われて・・・伝統とはいえ、その伝統を披露する場もなければ続けていくことは
難しいと時代を先読みしていた父は廃業を決意。
まだまだやっていけそうなのに・・・とありがたいお言葉をかけていただきながらも
早々に廃業してしまいました。
私が中学2年生くらいだったと思います。

籍を置いていた芸妓さんも置屋の廃業とともに解散。
父のバックアップでスナックを経営するお姐さんもいれば、
コンパニオンに転進したというお姐さんも。
どこかの温泉場に職を求めて出向いていったお姐さんもいらっしゃいました。
今では行方がわからない方がほとんどですが、みなさん元気でいらっしゃるのかな。
母が亡くなった事、知っているのかな・・・
時々ふとあのにぎやかな風景を思い描くと胸が熱くなり、
あの活気のある独特の雰囲気の温泉場を夢に描くことがあります。

家業を廃業したものの、まだ私は中学生。
この頃から激務がたたったのか、両親が相次いで体調を崩すようになり
新たに仕事を探して働くことはとても厳しく、おそらく貯金を切り崩して生活を
していたのだと思います。
・・・私、実は今で言う『お受験』で中学から私立に行かせて貰いました。
母親同士仲の良い幼馴染がお姉さんの通っている学校に行きたいということを聞き、
それだけで私も感化され受験を決めてしまった・・・と思われます(笑)
友人は有名塾へ通っていましたが、私が受験を決意した頃はもうすでに入れる枠もなく
父と毎朝4時に起きて勉強した覚えがあります。
かなりスパルタな父に線引きで叩かれながら涙をこらえて問題を解いていたあの頃。
親子してなぜか引き下がれず、意地もあったのだと思います(笑)
めでたく?なのかマグレなのかいまだに合格して、6年間も通って卒業したことが
いまだに不思議で・・・今の私の様子から『え?ほんとに卒業生?!』と
いわれるほどですが・・・。
こうして私自身親になった今、家業を廃業したのにもかかわらず、学校を卒業
させてくれたことについては本当に感謝しきれないです。
病気も抱えながら働けない不安を抱えつつ、それらを一切感じさせずに
全力でバックアップしてくれたなぁと・・・。

家族で一緒にスポーツをするとか、そういった普通の家庭にあったことは
少なかったけど、華やかでありつつ厳しい花柳界のこと、男女のこと(笑)、
お金のことなどかなりオープンで独自の路線で世の中を見せてくれたと思います。

自分の将来を考える時期がきたころには、手に職!!をかかげ、
そのまま成績をキープしていけば大学へ進学できる道ははじめから選択肢になく
システムエンジニアを目指しました。
その頃、興味持っていたのがパソコンだったので(笑)

みんなが右へ行くというなら、あえて左に進んでいこうとする
アマノジャクというか、苦労も後日談として楽しんじゃおうという精神のルーツ
になっているんでしょうか?

今も昔も本当に両親に感謝しています。

特に・・・そのキモチは静かに眠る母。

そんな母へ祈りをこめて次回は思いをつづりたいと思います。

  

Posted by うるまゆ at 01:27Comments(0)家族